ADHD・アスペルガー

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幼少の頃より行動には落ち着きがありませんでした。
よく言えば活発的・活動的な子供。違う言い方をすれば落ち着きのない、じっとしてられない子、言わば多動性症候群です。

 

*幼少期の生活環境

親は共に身体障害者で、父の職業は按摩・マッサージ師。母は洋裁の仕事を間借の部屋(自宅)で営んでました。
その頃に住んでた家は、昔の赤銭界隈に合った料亭の屋敷で、敷地内には家が3棟、倉庫1棟ありました。

 間借りで住んでた家は2階建の木造家屋、7LDKの内で8畳と6畳を間借りしてました。風呂無しの共同の玄関、土間・台所、トイレ。

料亭らしく、家の玄関は8畳ほどあり、敷地内には庭、その他母屋が二棟(4LDK・2LDK)ありました。

 それぞれの家には、8世帯の家族がそれぞれ住んでいて、いつも一人になることは無く誰か彼かに構われて、毎日一人になる事はありませんでした。

金柑頭と呼ばれていました。
金柑頭と呼ばれていました。

 

行動記憶

記憶にまだ残っているのは、保育園(宮崎八幡神社保育園)に上がる3歳の頃、ゴミ置き場から、壊れた”おもちゃ”や機械箱のような「形の壊れた物」ガラクタを見つけては家に持ち帰ってました。また「このプラスチックの箱は踏んだら壊れるかな?」「ガラスは割れるのかな?」と壊れるのを見て「ヤッパリ壊れた」と確認しないと気が済みませんでした。
 

放浪癖

 よくゴミ収集車や、廃品回収車などの移動しながら仕事をしている人を見かけると、その後ろを何処までも着いて行き、よく近所の人が「2丁目先で見かけたよ」とか、「また、どこ何処の清掃車の後ろにくっついて歩いていた。」との目撃情報を聞いて探しては見つけて連れ帰っていたそうです。
ある時は、「この道をずーとまっすぐ行けばどこに行くのだろうか?」と氣の済むところまで行き、帰りはまっすぐ帰ってきているつもりなのに、決まって帰り道が判らなくなってました。

 夜寝る時には必ず、頭の上の枕元に着ていた服を畳んで9時頃には就寝、毎日、太陽が昇る5~6時頃には起きて、すぐ枕もとの服に着替え外へ出て、冒険の始まりです(笑)
 両親が、朝起きるといつも居なくなっていたのですが、腹が減ると家に戻っていたので「この子は腹が減ると帰ってくるから」と特に心配していなかったようでした。(怒られたことがない)

 夏場は、父親がタライに”ひなた湯”を作り水浴びをさせてくれていました。その事もあり、水に対する執着心が強くなり始めました。

 やがて保育園に入園しましたが、登園後は、日常的に意味もなく奇声を上げたり、歩き回ったりしてました。

次第に毎日の保育園生活の習慣が不思議になり、「何でみんなと同じ行動をしないといけないのか?」が理解できず、集団行動を取れなくなっていきました。
 毎日体のエネルギーを使い切るまで動いて、もしくは疲れて倒れる寸前まで動いていたので、夜の就寝は早く睡眠も毎日しっかりとっていました。 なので、昼寝が出来ず、皆が寝ても「なんで、寝なければいけないのか?」が判らず、保育の目を盗んでは園の外へ「脱走」してました。 
 ある日、脱走が見つかり、木の上に逃げ込んだ時には保育の先生と戦いになり、木の上に隠しておいた石や木の枝・木の実等を投げつけ、対抗する保育士は物干し竿を持ち出しての応戦をされた記憶が残ってます。(まるで猿かに合戦です。)
 ある時、保育園に5mX5mほどのプールらしきものが作られたのですが、この時も、昼寝の出来ない私は保育士の隙を見て、服のまま飛び込んでいたので、仕舞いには「この子は自閉症です。」と親が呼び出され保育士と親が自分を挟んで頭の上で口論したのを憶えてます。

 

そんな事を繰り返していたので、小学校に上がる時には「仲良しクラス(特殊学級)に入るか?普通クラスの方がいいか?」と親から聞かれました。たぶん、学校側から話があったのだと思いますが、もちろん、普通クラスの方が、人数も多くたくさん友達を作れるので「普通クラスが良い」と普通クラスに入れてもらいました。

 

小学校6年生
宮崎市立宮崎小学校水泳大会(宮中プール)

小学校

小学校に上がってからも、その行動が変わることは在りませんでした。
しかし、今度は男の先生です。 椅子に座り人の話を聴くことの意味がわからず、先生が後ろを向くと椅子や机の上に立ったり、教室を歩き回ったりすると、みんなが笑うので、みんなを笑わせたくて動き回っていたので、そのたびに先生の拳骨を喰らってました(笑)
当然、毎日の宿題に夏・冬休みの宿題がまともに出来る訳が在りません。
次第に、先生の拳骨が2段コブ・3段コブとなり「我慢」する事を憶え始めました。

 水浴びが好きな分、水泳の授業だけは、活き活きしていました。水に戻した魚、同様です。水を一切怖がらないので、いつも褒められていました。そしていつの間にか、水泳だけは”お前”が一番だとクラスで言われ、学年でも言われるようになり「あいつは、カッパだ。」と卒業するまで呼ばれました。

 

小学校3年生の時に作文で「大人に成ったらなりたい仕事」を書きなさいと言われ「水泳の先生になりたい」と作文を書いたら「そんな仕事はない!」と先生に言われましたが、13年後の最初に就いた仕事はスイミングクラブの先生、インストラクターでした。

 

 依然として集団行動が理解できずに全校朝礼で右向け右で一人左を向いたりしていたので、次第に「頭のおかしな子」として扱われるようになり、何をしても「おかしいから、変だから」で済まされる様になり「俺は変なんだ」と自覚するようになりました。

 

中学校

 水泳部に入ることにより学校の中で、自分の居場所、エネルギーの発散場所が出来ました。

毎日放課後プールで泳ぐ事で今まで続いていた奇行が落ち着き始めます。

外で泳げる期間中は毎日、水に入らないと落ち着かないので、台風で練習に行けなくなった時には「雨に濡れるんだから水泳も同じ!」と騒いで、雨の中をプールに行ったりしてました。

 部活動の水泳で水に入ることで、水泳の競技力も向上し、市の大会や県大会で優秀な成績を修めることが出来たので、自分の思わぬところで先生たちからの評価が上がりました。
でも、この頃から大人が成績一つで評価する事に「不信感」を抱き始めます。

 思春期も重なり、これまで行動で現していた事が、言葉で表現出来るようになりはじめ、国語や道徳の時間に「先生それは、人間性の問題だ!」と物事や道理を論じては、授業を中断させたりしてました。

 そんな事を繰り返していたので、クラスでは人気者、教育者から見ると不良グループにも属さない「危険人物」として扱われていました。

 それでも向かえた高校進学は「行くか、行かないか」を悩みましたが、みんなが高校に進学を決めていく中「水泳を続けたい。」と水泳部の在る高校を決めて受験する事にしました。

 

 

第34回国民体育大会 日本のふるさと宮崎国体
第34回国民体育大会 日本のふるさと宮崎国体

高校生活

 

高校から水球を始めました。

この水球に出会った事、水球を指導してくれた恩師が

自分の人生を変えました。

 

 3年後に地元国体(宮崎国体)を控えた宮崎工業高校水泳部水球部の1年生として入部しました。 このときには、国体強化指定校になっていて、入部と同時に国体強化選手です。 
入部当初は1年生11名・2年生5名・3年生6名でしたが、3年生が抜けた後の翌年1月頃には1年生1名+1名。2年生3名の4名しか残っていませんでした。

それほど、2年後の国体に向けた練習が激しかったのです。
1年生が+1名と書いてますが、

 意味は、8月頃には精神的・肉体的に耐えれなくなり限界に達していて、鹿児島合宿の最中に逃げ出し皮肉にもその日は自分の誕生日でした。

しかし、半年間水からはなれた事で「水から離れられない!」と、この事に気付き、頭を下げて「虎の穴の水球部」に戻りました。

 戻ってからは、「2度と水からは、離れらない、俺は水を裏切らない」と覚悟を決めた後だったので、少しずつ精神的にも肉体的にも練習についていけるようになり、2年生に成り、1年生の新入部員も増えて、その事で自覚も芽生え、実力も付いてきました。
水球というスポーツに、自分のエネルギーを向ける事で、良い方向に褒められるので増々のめり込んで行きましたが、それ以外の私生活では相変わらずで、その行動は奇行で、変わることはあまりなかったです。

 でも指導者と環境、友人にも恵まれた事で、インターハイ3位・国体2位の成績を残すことが出来ました。

 

大学時代 

 

高校で優秀な成績を収めたので大学からの勧誘もあり水球を続けたくて、進学しました。

大学では、商学部商業学科で運動では体育会水泳部水球部でした。
上京すると水泳部の合宿所の寮に入り競泳とあわせ43名ほどの男世帯です。 合宿所と言っても、アパート1棟(12部屋)を丸ごと貸切った名前だけの寮です。管理人は居なく寮の規則は4年生が決めます。 生活は24時間、総て縦て社会。
合宿所の食事を作るのは1年生の週2回の当番制。ここでも寮生活に半年ほど着いて行けず自分が失敗ばかりするので「ボケ谷」と1年生の時に、あだ名をつけられ自分が食当の時は失敗をして2年生のミーティングが掛かるので「打率3割」と言われてました。
それでも、「水からは離れない」と決めて上京してきたので、どんな過酷のことにも耐えてました。 しかし、耐え切れなくなった同期の1年生が、ある日「1年生全員で逃げ出そう」と相談になりました。しかし、自分は「やめない」と覚悟を決めていたので「俺は逃げない!お前らが全員がいなくなったら、4年生になった時に、俺がキャプテンだ!!」と言い放ったら「それだけは我慢できない!」とこの一言で全員の気持ちがひっくり返りました(笑)
そして何とか2年生に上がり、ようやく水球の練習に集中できるようになりました。
3年生にもなるとだいぶ自由が利くようになったので、強くなりたい一心で、競泳の練習に出たり、他の大学の練習に参加したりして、1日3回も練習をするようになりました。相撲で言うところの「出稽古」です。それで1日7-9時間ほどの練習時間を確保してました。あまりにも頻繁に出稽古に行き、ご馳走になって帰ってくるので今度は「お前は、野良犬か」と言われましたが、「強く成れればなんと呼ばれてもかまわない」と聞き流してました。
そして練習を人一倍積んだおかげで、ボランチとして動きゲームコントロールも出来るようになりチームの要として試合で活躍するようになります。
また、ナショナルチーム入りを目指してましたが、空しくも一度も声がかかることなく4年間を終えます。

 

現役時代「人間凶器と言われた時代」
関東学生大学水球リーグ戦最終日にて(結果4位)

社会人

 

 卒業後、縁あって、スイミングクラブに就職します。

入社して2週間ほど立った時に、突然「あっ!」と気が付きました。

それは、小学生の時に作文に書いた事、「水泳の先生」になってました。 「夢は叶うんだ」と、ここから人生勘違いが始まりました。

その当時のスイミングは職人集団の気質で、水泳指導の仕事は「見て盗め」の世界でした。 

人の観察が得意だったので「楽しかった」ので、気がついたら入社して2年間休みなしで会社に行っていて、お前は会社に来るな!と業務命令を出されました。

でも、器用ではなくて「ボケ谷」と言われてたほどですから、すべて見よう見真似から始まり、まねては失敗して身体で憶えて行きました。
ひとつの夢が叶ったことでスイミングで次の夢を目指すことにしました。入社と同時にジュニア水球の選手コースを任されたので「ジュニア水球で日本一になり、世界に通用する選手を育てる」という夢です。

そして、7年後に全国大会で優勝、その後その中からオリンピック選手を輩出することが出来ました。

 

現在

 

ウォーターマンになる事を目指してます。